top of page

陶芸家

伊藤 東彦 場合

In the case of "Itoh Motohiko", a potter

2023
5
20日(土)- 28日(日)
12:00 - 18:00
会期中無休
photo_10.jpg
 ヒトだけが生命を維持する目的以外でも、ものをつくる生き物です。
 その「つくる」もヒトから社会をもった人間ともなると、「作る」「造る」「創る」と表記されるようになりました。子どものそれは「作る」で良いのですが、大人になるにつれ社会での多くの役割を持つようになり、表記分けして整理することで伝えやすくしたのでしょう。
 更にそれに「製作」や「制作」という分類も加わり、自分の為に楽しく始めた「作る」が、いつの間にか複雑になってしまいます。
CONTENTS
#1  【つくる】について
#2  制作環境を選ぶこととは
#3  初期の作品について
#4  分岐点の作品
#5  感性の作品と社会性
#6  再度、楽しく作る精神で

芸術家の作品に関しては、初期作品と後期作品を良い悪い、好き嫌いと単純に評価されることがありますが、作家の性格や社会背景と「作る」の変化を重ねてみることで、新しい側面が見え始めます。

萌花 moeka 2022

伊藤東彦の

【作る】

を考える

#1【つくる】について

 ヒトだけが生命を維持する目的以外でも、ものをつくる生き物です。

その「つくる」もヒトから社会をもった人間ともなると、「作る」「造る」「創る」と表記されるようになりました。
 子どものそれは「作る」で良いのですが、大人になるにつれ社会での多くの役割を持つようになり、表記分けして整理することで伝えやすくしたのでしょう。更にそれに「製作」や「制作」という分類も加わり、自分の為に楽しく始めた「作る」が、いつの間にか複雑になってしまいます。


 特に芸術家の「つくる」は、その人の性格や社会との関わり、初期後期の違いで作品もいろいろで、表記する時に迷ってしまうことがあります。自身へ向けての好奇心で楽しく「作り」始めても、作品が社会性を持つようになると「造る」や「創る」と表記されるようになり変わり、「造形作家」や「創作活動」のような言葉も使われるようになりました。
 芸術家の作品に関しては、初期作品と後期作品を良い悪い、好き嫌いと単純に評価されることがありますが、作家の性格や社会背景と「作る」の変化を重ねてみることで、新しい側面が見え始めます。

photo_7.jpg
photo_6.jpg

#2 制作環境を選ぶこととは

 笠間で制作する伊藤東彦さんを通して、作家の性格と社会状況を鑑みて作品の変化のようすを見ることで、改めて作品が新鮮に感じるのではと考えています。
 伊藤さんが笠間に住み始めたのは、昭和43年。その頃の益子は浜田庄司さんの影響もあり、活気に溢れていました。陶芸家を目指す若者は絶好の地と考え、住み始めていました。しかし伊藤さんはあえて益子ではなく、笠間に住むことを決めたのです。


 当時の笠間焼は、古くからの窯元は減少し、カメやすり鉢作りや益子焼の下請けで何とかしのいでいる窯元もある状況でした。認知度も低く専門販売店も無い寂れかけた笠間焼の地は、新しい表現をめざす伊藤東彦さんにとっては、ゼロからスタートできる最適なところだと思いました。
 メジャーになった日本の野球は既に厳格なルールがあり、空き地での三角ベース(野球) は、楽しさ優先でルールもアバウトで自由さが溢れているように、その頃の笠間は訪れる人も少なく伝統も感じられなく、元来自由な性格の伊藤さんには笠間は楽しくモノ作りできると感じたようです。
 そのような性格は、後の伊藤さんの制作内容に繋がります。

#3 初期の作品について

 伊藤さんは焼き物に関わり始めた当初、子どものように誰のためにでもなく、自由奔放に楽しく作り始めました。作る中でテーマが現れ、そのテーマに触発され、作品を作る中でまた新しい発見があり、その発見に触発され作る。そのような繰り返しで、たくさんのオブジェ風作品を作っていました。
 それらは自身へ向けての作品でしたが、客観的評価を得たいと考え公募展への出品も試みました。


 発見的で実験的な作品には自由さと力強さがあり、それに呼応する感性を持つ人は魅かれましたが、作品の一貫性や完成度を求める人には距離があり、多くの支持を得るまでには至りませんでした。しかし、楽しく作ることができていたので、精神的には充実していました。


【追記】ーーーーーーーーーーーーーー
 その頃の笠間は、伊藤さんと同様の思いを持つ作家も住み始め、生活を支えるためにも器作りするようになっていた。
 追うようにして昭和47年に笠間焼専門流通卸業者として常陽物産ができ、社員であった渡辺正子さんが平成元年、笠間では初めての笠間焼展示販売店としてギャラリー陶正を開店した。
 ギャラリー陶正の片隅には喫茶コーナーを設け、作家の仕事だけでなく日常の悩み等の受け皿としての役目もしていた。

photo_11.jpg

#4

分岐点の作品

蝕まれた筥 mushibamareta-hako  1973

 伊藤さんは、そのような笠間であったからこそ、自分らしい表現方法を探すための作品作りが可能でした。
 その中、徐々にオブシェ風の作品作りから離れ、普遍的で無名の形に用途性を加味した作品にたどり着きました。
 それは、手の感覚を頼りに作られた立方の形で、表面の加飾においても造形性のないストライプの線を用いた蓋ものの箱でした。
 そのようにして作られた作品制作は4個だけで終わり、極めるまで作らなかったのです。オブジェから立方の箱までの制作は、出会いを求めた発見的な作業である故、造形として作り込む必要はなかったのでした。
 伊藤さん自身も、立方の作品は、以後の制作のスタートになるに作品として今でも大きな意味を感じているとのことです。

【追記】ーーーーーーーーーーーーーー
 4個作られた方形の箱の1個は、ギャラリー陶正オーナーの渡辺さんの個人所蔵品としてギャラリーの中央の展示台に大切に展示されています。
 渡辺さんは方形の箱の作品に出会った時は強い衝動を受け、販売目的としてではなく近くに置きたいと考えて購入したとのことです。
 形態は柔らかさを持たない方形であり、心和ませる草花ではなく無機的な直線が描かれている。そのような作家自身のための作品は「作品を観るだけで感じる」人ではなく、作家の作る姿勢や想いを理解できる人に対して感じさせる何かがあったようです。
 「ギャラリー陶正」オーナーの渡辺さんだけでなく、現代美術家も購入し、所蔵している理由が理解できます。

#5 感性の作品と社会性

 実験的作品作りも継続することで作家の中で無理のない型

らしいものができ、次はそれを用いて自身の感性を表現する段階に移りました。
 無表情の形は曲線に、表面の加飾は日常的に愛でている草花をモチーフに、作風や技法も一貫性を感じるようになり、完成度の高い作品になっていきました。
 モチーフが草花であることで観る人との距離が近くなり、多くの人の共感と支持を得ることにもなり、有名な画廊や百貨店からの展示会の依頼が多くなりました。
 多くの人から支持と期待は、美しさと造形も含めた作風をさらに追求することの後押しになり、前の作品より更に質の高い作品の創作へと向かうことになりました。

【追記】ーーーーーーーーーーーーーー
 昔から芸術家の苦悩は経済や恋愛等いろいろ原因が語られてきましたが、今回は精神的な部分で考察してみます。
 無名時代は自由で誰に遠慮することなく子供のように作っていた人が、あるきっかけで多くの人から作品が評価されるようになると、有名芸術家として認知されるようになります。
 それとともに、評論家はもとより画商や画廊等の関係者が、作家と観衆の間に介在するようにもなり、それらの人達からの経済も含めた期待が大きくなります。
 究めようとするのではなく自由に作ることから始まり、周囲に対して気遣いや優しさを持てる人の場合は、その期待に応えようとする気持ちと自由な精神の間で苦悩が始まります。
 伊藤さんの場合は、皆に分け隔てなく接しカラオケを楽しみ、
悩みは無いようにみえていましたが、大好きな自然を描くことで悩むことを忘れていたのかもしれません。

photo_5.jpg

布目椿紋花瓶 nunome-tsubakimon-kabin 2000

photo_12.jpg

#6 再度、楽しく作る精神で

 感性を通しての多くの人からの応援は嬉しく感じていましたし、社会的になることで公からの支持に繋がりました。考えてもいなかった慣れない仕事や宴が多くなり、そのような日々を送る中、2007年に突然体調に異変をきたし、自由に手を使うことができなくなりました。それまでのように制作することが難しくなってしまったのですが、「作る」精神は健全なままで衰えていなかったのです。
 人間は良いモノを造ろうとする以前に、生み出すように自由に作っていたのです。伊藤東彦さんは「作る」以外のわずらわしさから解放されて又作り始めました。

【追記】ーーーーーーーーーーーーーー
 芸術家といわれ専門家にもなり素材や技術にこだわり究めるようになると、「灯台もと暗し」で粘土の良さを忘れてしまう可能性があります。粘土は石や鉄とは違って、技術有る無しに関わらず全ての人に分け隔てなく、指先一つでも自分らしさを表せる懐が広い優れた素材です。
 それがきっかけになり焼き物の世界に入った人は少なくないと思います。

人間は良いモノを造ろうとする以前に、
生み出すように自由に作っていたのです。

伊藤東彦さんは
「作る」以外の煩わしさから
解放されて、

再度、楽しく作る精神で

作り始めました。

五百羅漢 gohyaku-rakan 2008

伊藤 東彦

Itoh Motohiko

ito.jpg

1939
1966
1973

1974
1984
1992

1999
現在

福岡県に生まれる
東京藝術大学 大学院 陶芸専攻 修了
伝統工芸新作展 入選
日本伝統工芸展 入選
日本伝統工芸展にて東京都教育委員会賞 受賞
日本伝統工芸展にて朝日新聞社賞 受賞
日本伝統工芸展にて鑑査委員を務める
日本の陶芸「今」百選展出品
紫綬褒章 受章
笠間にて制作

mark_i.jpg

つくり手

批評

藤本 均 定成

Fujimoto Hitoshi Sadanari

1951年和歌山市生まれ
1969年、工作好きの延長で美術教師の助言で美大に入るが、6ヶ月で自主卒業。
1969年、上野伊三郎、上野リチ(両者ウィーン工房出身)の運営する研究所に移りバウハウスデザインを学ぶ。
1973年、自主運営美術塾(発起人・高松次郎)に参加。【作ることその制度に興味を持ち、作品を通しての発表が始まる】
1975年、笠間に移り、焼き物(桧佐陶工房)と石彫(杉山寅吉石材店)を学ぶ。
1982年〜2000年、柳デザイン研究所において彫刻製作部門担当。
1999年〜2011年、『建物の解体を創造的に』をテーマに作ることの再考を試みる。
自らの「ものづくり」と、社社会での「ものづくり」の制度化について考え、

1998年以降は数々の作家の展示空間や装置を作り続けるとともに、

「つくる」ことを観察、考え続けている。

access
t_logo.png

ギャラリー 陶正

茨城県笠間市下市毛205

お問い合わせ先

090-3548-2597

(フジモト)

bottom of page